98 比翼塚
高木公園の東に、道をへだてて明楽寺(現在廃寺です。)の墓地があります。木立の中の墓地には、元高木神社の神宮、宮嶋巌さんと、妻喜与さんの塚が並んでいます。今ではその由来を知る人も少なくなりましたが、この塚には夫の後を追って自害した妻の話が言い伝えられています。
徳川幕府の終りのころ、宮嶋さんは江戸南町奉行遠山家ゆかりの武士でしたが、新政府となった明治二年宮嶋さんは喜与さんを連れ、奉公人の里、高木村の明楽寺の庫裡に留守番として住みこみました。
そして、武士の名「鉄右衛門」から巌に改め、かたわら寺子屋を開いて村人に読み書きを教えていました。しかし、この明楽寺に戸長役場が置かれた夏の明治六年八月十五日、病により帰らぬ人となりました。
たよる夫に先立たれ、なじみの浅い土地で喜与さんは一人とり残されてしまったのです。その後、しばらく戸長役場の用を手伝っていた喜与さんは、宮嶋さんの百ヵ日が過ぎた十一月二十六日、ひっそりと夫のもとに旅立っていきました。
その最後はさすがに元武士の妻、乱れぬようにひざをひもで縛り、短刀で命を絶ったということです。
後に、夫妻の冥福を祈るため、ゆかりの人々によって明楽寺の墓地に二つの塚が造られました。高さ七十センチメートルばかりの巌さんの塚と、その脇にひとまわり小さな喜与さんの塚が、つつましく寄りそうようにあります。
(p211~212)
197比翼塚(211)
御一新により、江戸詰をしていた大名、徳川将軍に仕える幕臣とその家族はそれぞれの本拠である「藩」に戻りました。特に徳川家に仕えていた幕臣の身の振り方は大変で、本拠駿府に戻れた人はともかくとして、戻れなかった人は、生活の基盤を失い、江戸の町で新しい方途を見つけてさ迷ったと云われます。
比翼塚の主人公・宮嶋巌さんは「江戸南町奉行遠山家のゆかりの武士」でした。「奉公人の里、高木村」としていますので、宮嶋巌家に高木村から奉公人として勤めていた人がいて、その伝手を頼って高木村に来村し、明楽寺に居を構えたのだと推察します。
「狭山之栞」では、尉殿神社の別当は明楽寺であるが『維新以来遠出左衛門尉家口鉄右衛門復飾の上宮島岩保と改称して神官となる』としています。現在の高木神社の神官になっていることがわかります。
寺子屋の師匠をし、高木村他五ヵ村組合村の事務を司ったかも知れません。しかし、戸長役場が置かれて間もなく亡くなっています。明治維新があったことによる話題で、徳川家臣が村に骨を埋めた貴重な証言をします。
◎宮島きよ自殺
変死人御訴
里正日誌13p266
128 「宮嶋 厳之塚」
明楽寺最後の堂守り
2004・12
私の散歩コースに、高木(塩釜)神社の脇を通る道があります。その東側の小高い丘には、六地蔵が置かれ、少しまえまでは小さな雑木林でした。 今では、樹齢30年ほどのクヌギ一本を残して、きれいさっぱり切られてしまいました。
以前、円乗院の長老から、「今は廃寺になっているが、かって明楽寺という寺があった。住職を長年勤めた人の隠居寺になっていた」という話を聞さました。その寺はどこなのか、多分ここ…と見当をつけていました。
夏の或る朝、丘の木を切り掃除をしている人に会いました。「ここは、円乗院の隠居寺だったそうですね…」と、声を掛けたら、「いや、ここは明楽寺の墓地で、隠居寺ではない、先祖の墓があるんだ」と、返事が返ってきました。
丘には気になるものがあります。斜めに傾いて立っている自然石で、碑面には『宮嶋巌之塚』と彫られ、裏には「明治六年八月一五日没 妻清‥‥」とありました。妻の名の下の文字は、土中に埋もれて見え無くなっています。 宮嶋 巌は、「明楽寺を守った最後の堂守り」と聞きました。『東大和市史』にこんな話が載っています。
「維新の変革の際、旗本の家来であった宮嶋鉄右衛門が、縁者を頼って高木村に移り住み、神官となり、近隣の弟子の教育に当たった。‥‥名を岩保(巌)と改め、死後、妻と共に葬られ、比翼の塚として明楽寺墓地東側にひっそりと立っている。 圓乗院の隠居寺・明楽寺は、今、高木神社の社務所になっているところにあったそうです。(狭山・数)